今だから知りたい吉田松陰

第11回 獄舎にて〜その1

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:吉田なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

やむにやまれぬ大和魂

この連載をず〜〜〜〜っと休んでいるうちに、遂に松陰さんも大河ドラマになっちゃいましたね。


正確に言えば主人公は妹の方だけどな。そもそも松陰を主人公にしたら1年間持たないよ。29歳の若さで死んじゃうし、自由を奪われた期間がかなり長いからね。およそドラマになりにくい生涯だ。

でも、伊勢谷友介さん、カッコイイわ〜。大沢たかおさんもカッコいいし、塾生もイケメン揃い。


あのさぁ、松陰の肖像画見ただろ。あれは松下村塾の塾生だった松浦松洞が描いたから、リアルではあるけど、ちょっと美化した松陰像だ。松陰の特徴として皮膚病でアバタがあったって言うし、どう見てもハンサムではない。松陰の一番弟子だった久坂玄瑞は身長180cmの男前だったし、盟友の桂小五郎も色男で有名だったけどな。

フン、別にいいじゃない。ワタシの松陰さんのイメージは伊勢谷友介さんで決まりなんだから。


はいはい。勝手にそう思ってなさいよ。妹の千代が「兄は、生涯、女性と関係をもつことはありませんでした」と証言しているけど、伊勢谷友介みたいだったら周りの女が放っておかないだろ。ついでに言っとくけど、松陰の妹、文(ふみ)は15歳の時に久坂玄瑞と結婚するんだけど、当初は桂小五郎の嫁候補でもあったんだ。でも、松陰や塾生の中谷正亮は玄瑞にと強力にプッシュした。玄瑞は「ルックスが自分のタイプじゃないから…」と一度は断ろうとしたんだけど、「君は色で妻を選ぶのか」と中谷に詰め寄られてしぶしぶ承諾したらしい。

えっ、ってことは井上真央ちゃんみたいに可愛くなかったってこと?



夫の久坂玄瑞が25歳の時禁門の変で自刃し、姉の寿も43歳で亡くなって、文はその夫だった楫取素彦と再婚して名前も楫取美和子に変わるわけだけど、素彦も美和子も晩年の写真が残っている。でも、見ないほうがいいと思うよ。夢が壊れるからな。美和子は顔立ちが松陰によく似ているとだけは言っておこう。

あ〜あ、ワタシのイメージが壊される前にそろそろ話を進めましょうよ。それで、密航に失敗した松陰さんたちはどうなったの?


松陰と金子重之助(輔)は、下田の長命寺で一時拘禁されたあと、江戸伝馬町の牢に送られる。萩に送られるまでの5カ月間、松陰はここで過ごすことになる。

松陰さん、辛かったでしょうね。他の罪人たちは話も合わないだろうし。



まぁ、普通ならそうなるところだろうけど、松陰はモノが違う。そんな状況でもめげないし、どこに行ってもひたすら前向きなんだな。江戸に送られる際に詠んだ歌が「かくすれば かくなるものと知りながら 已(や)むにやまれぬ大和魂」

凄〜い。「わかっちゃいるけどやめられない」みたいな…



そ〜ゆ〜“安政の無責任男”みたいなニュアンスとは違うと思うけど、江戸に行ってからも「国禁を犯した重罪人」っていう触れ込みだったから、囚人たちに“大物”が来たという意識があったみたいで、松陰を虐待するどころか、好奇心満々で話を聞いていたらしい。

アハハ、松陰さんって、生まれつき“先生体質”なのね。



後に「江戸獄の愉快さに及ぶものはない」と書き残しているからね。牢内には細かなルールや序列があったんだけど、あっという間に牢名主に次ぐナンバー2にまで“出世”したっていうから、萩にいる時よりも別の意味で“認められた”ような気分だったかもね。そう考えると、塾生の身分を問わなかった松下村塾の原型はこの伝馬町にあったのかもしれない。

松陰さんには身分とか年齢とかを超えて、人の心をつかむオーラみたいなものがあったのかもね。


まぁ、そんな風に「愉快」に獄中生活を送っていた松陰だけど、とばっちりを食ったのが師匠の佐久間象山だ。弟子の不始末は師匠の不始末ということで伝馬町に入れられるんだけど、伝馬町を出た後も松代藩から蟄居を命じられたから、結局8年もの間自由を奪われた。

松陰さんって行動力は凄いけど、その分周りの人にとっては迷惑だったでしょうね。


父の百合之介と兄の梅太郎は萩で謹慎。これはまぁ、家族だから仕方ないとしても、最も悲惨だったのが密航に同行した弟子の金子重之助だ。この人は士分ではなかったから伝馬町では百姓牢に入れられた。萩に送られても同様の扱いを受けて、24歳で病死する。

うわ〜、アメリカに行けてたら全然違った人生だったのに。



責任を感じた松陰は萩の獄中で、食事代からおかずと汁の分を節約して、残った金を遺族に送り続けたというんだな。


なんだか泣ける話ねぇ。若者が国の為を思って命懸けで行動したのに、結局誰にも理解されなかったのかなぁ。


いや、そんなことはないよ。アメリカ密航を企んだ長州藩士がいたという話は大きな波紋を投げかけた。その噂はまず江戸で評判になり、全国に流布する。薩長に限らず、国を憂いる若者たちは大いに刺激を受けたと思うよ。ちなみに、このニュースは海外でも報じられてフランスの新聞にも載ったらしい。

そうかぁ。欧米に行こうとした日本の若者がいたっていうことは、そのくらいインパクトがあったのね。


家老として天保年間に長州藩を改革した村田清風は、松陰の密航を「これが事の端緒というものじゃ」と評しているし、兄の梅太郎が獄中の松陰に宛てた手紙には「汝の詩文江戸にて書生写し取り候由云々」と書かれている。

松陰さんは「いつか誰かがやらなければならないこと」を実行して、それが若者たちに「今度は自分たちがやらなきゃ」って気持ちを芽生えさせたわけね。

キミらしくない見事なまとめ方だな。全国でくすぶっていた開明派が「国禁がなんだ、松陰にできたのなら俺にだってやれる」と勇気づけられた。この事件が投げかけた小さな波紋が、やがて維新という大きなうねりになっていくわけだ。

そう考えると、ちょっとマヌケに思える松陰さんの密航作戦も、すごく価値があるように思えるわね。


ははは。確かに戦術を生業にしている人間にしては行き当たりばったりだし、作戦が穴だらけで少しマヌケな部分はある。しかし、そこがまた人間松陰の魅力なんだな。松陰は密航の顛末を後に書き残しているんだけど、そこには計画の失敗後にすぐに自首したと書かれている。しかし、幕府側の記録には松陰が見失った船の探索を依頼した時にはすでに船が発見されていて、持ち物が役人の手に渡っていた。そのことを知って、観念して自首したということになっている。

あれぇ? そうなると話が違ってくるじゃない。



どちらの話が正しいかはわからないけど、この件に限らず、後にちょくちょく話を美化したり、大げさにしたり、自慢したりと、松陰は決して聖人というわけではない。でもねぇ、そんなことはどうでもいいんだよ。だって、この時まだ24歳なんだよ。世間一般で言えばもっと虚勢を張ったり、多少の過ちを犯しても許される歳じゃないか。でも松陰は下手したら死罪になるような行為を、自分の信念だけで押し通したんだ。そんな24歳、今の時代にいるかい?

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