第4回 その時長州は
語り手:大江戸蔵三都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。
聞き手:吉田なぎさ都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。
「オットセイ将軍」と「そうせい候」
ところで、吉田松陰が生まれた時って、どんな時代だったの?
松陰が生まれたのが天保元年(1830)だから、11代家斉の時代だ。で、家斉の時代になって真っ先に行われたのが松平定信による「寛政の改革」だ。この路線は定信が失脚しても、定信の側近だった老中たち、いわゆる「寛政の遺老」によって受け継がれていたんだけど、老中たちがいなくなると、家斉は側用人の水野忠成を登用して贅沢三昧。財政が破綻すると同時に、賄賂が横行して幕政は腐敗する。幕府の崩壊は、すでにこの頃から始まっていたんだよ。
改革を後押ししたはずの将軍が、人が変わったみたいにダメになっちゃったのね。
家斉は改革には全く関わっていないんだよ。家斉が将軍になった時はまだ中学生ぐらいだったから、政治の実権は定信が握っていた。でも、大人になってくると、厳格過ぎる上に自分の意見を聞き入れない定信の存在がうっとうしくなってきて、結局罷免することになる。まぁ、家斉という人は権力志向は強いくせに、政治には疎い。とても将軍の器ではなかったと言えるね。ただ唯一熱心だったのは…。
唯一熱心だったのは何よ?
アッチの方だけ。わかっているだけで妻と妾が16人、できた子供が男子26人、女子27人。精力増強のためにオットセイのペニスを粉末にしたものを飲んでいたから「オットセイ将軍」なんて呼ばれたんだ。
あ〜、くだらない…。
そんなくだらないオットセイ将軍が50年も在位して、将軍の座を譲った後も死ぬまで陰で実権を握っていたからね。セイウチ、じゃなくて追い打ちをかけるように天保4年(1833)から天保10年(1839)まで記録的な大飢饉になったから、全国で百姓一揆が起こった。そんな中で、天保8年(1837)には、庶民の窮状を見かねた大阪の元与力・大塩平八郎が反乱を起こす。続いて越後では国学者の生田万が代官所を襲撃する事件を起こした。
政治に対する不満が地方で爆発したのね。
石原知事じゃないけど、生き方の規範であるべき武士、その頂点である将軍や幕閣が「我欲」に走るから、役人は賄賂を求めるわ、商人は米を買い占めるわで、日本国中が「我欲」に溢れて、不正や腐敗が横行していたわけ。
それじゃあ、どうしようもないじゃん。
どうしようもないから、天保12年(1841)に家斉が死んだのを見て、老中首座・水野忠邦が過激な引き締め策を断行する。これが天保の改革だ。忠邦自身、賄賂を使ってのし上がった人なんだけど、モリソン号など相次ぐ外国船の来航や税収の悪化に危機感を感じていたから、緊縮財政を推し進めた定信の治世に戻すべきと言う考えで政治改革を進めていった。
吉田松陰の少年時代は、そういう時代背景だったのね。
松陰が生まれた長州藩も、松陰が生まれた翌年の天保2年(1831)に凶作と重税に苦しむ農民達によって、藩全域を巻き込んだ10数万人規模の大一揆が起こっている。藩の財政状況も深刻だった。藩の歳入が3000貫なのに、借金は80000貫。支出が収入の27倍という異常事態だ。
今の日本だって、借金総額は純粋な年間税収の20倍ぐらいだって聞いたことがあるわ。
また、現代と似たような状況を幕末に見ることになっちゃったね。天保7年(1836)には、萩開府以来の大洪水に見舞われる。そんな踏んだり蹴ったりの状況で藩主になったのが毛利敬親(たかちか)だ。それが天保8年(1837)。大塩平八郎の乱と同じ年だね。敬親はその翌年、藩の状況を察して、質素な木綿の服で萩に入った。
やっぱり、自分から手本を示さないとね。ダメな政治家や白アリ官僚に聞かせてやりたいわ。
そこから敬親の藩政改革が始まるんだけど、興味深いのは、この殿様が松平定信や水野忠邦のようなワンマン政治家ではないこと。何しろあだ名が「そうせい候」っていうくらいだからね。
えっ? 「そうせい候」ってどういう意味?
部下が進言したことに、ただ「そうせい」って言うだけだったらしい。但し、この人は人間を見る目が確かだったから、優れた人材を登用してあとは全権を任せる、という理想的な上司でもあった。
なかなかできそうでできないことよね。
長州藩における天保の改革も、実際に手腕を振るったのは村田清風と坪井九右衛門だ。基本的には緊縮財政と金融制度、流通制度改革なんだけど、細かい内容を話しているときるがないからこのへんで止めておくよ。
う〜ん、たぶん、説明されてもわからないような気がする…。
松陰の父は杉百合之助という下級武士で、妻の滝とともに松本村の団子岩という山麓の狭い一軒家で暮らしていた。そこで授かった次男が虎之助、後の松陰だ。父の百合之助は無給通という低い身分だったから、農民のように田畑を耕さなくては食べていけなかった。
そんな貧しい暮らしじゃ、学校にも行けないじゃない。
その通り。松陰は寺子屋にも通えなかった。だから、幼い頃の読み書きは、兄の梅太郎と一緒にすべて独学だ。しかも昼は田畑で作業しながら、夜は米つきの手伝いをしながらね。そんな中で、百合之助の弟に、毛利家の山鹿流兵学師範であった吉田家に養子として入っていた大助という人がいたんだけど、この人が病弱だったから、虎之助が4歳の時に叔父・大助の仮養子になった。で、翌年に大助が亡くなったので、虎之助は5歳で大次郎と名を改め、正式に吉田家の当主になった。
それって凄くラッキーなことだったんじゃないの?
松陰の人生で最初のターニングポイントだね。大次郎がまだ幼いということで、山鹿流兵学の教授は、もう一人の叔父であり、やはり玉木家の養子として家督を継いだ玉木文之進や林真人が受け持つことになる。で、この玉木という人が、松陰の最初の「先生」になるんだな。
先生って言っても、叔父さんでしょ。
この叔父がモーレツなスパルタ教育者だった。何しろ幼いとはいえ、大次郎は将来山鹿流を背負って立つ跡取りだ。7歳で叔父の文之進からつきっきりで孟子の講義を受け、覚えが悪いと本を取り上げられ、態度が悪いと竹の鞭でビシビシ叩かれる。6メートル先までブン投げられたこともあったらしい。
ゲゲ〜、まだ7歳でしょ。今だったら児童虐待で訴えられそうね。
しかし大次郎は良く耐えた。生来の学問好きだったからスポンジが水を吸うようにどんどん知識を吸収していったんだ。
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